今城焼について

今城焼について

高槻と古代陶芸文化の関係

日本文化の黎明期(西暦500年ごろ)大阪高槻は陶芸文化発信の地でした。『日本書紀』にはこの地に日本最古の大規模な官立の陶芸工房や、多くの窯が稼働していたと記されており、事実、数十基の窯跡や、工房跡が、FIELD土香の北西の地に発見され(新池ハニワ工場公園として整備されています)大変話題になりました。
また、発掘された土器には様々に施された「水滴文様」や古代朝鮮「新羅:伽耶文化(伽耶=日本では任那と呼ばれていた)」を継承した様式などが窺え、まさに日本の本格的な陶芸文化の始まりの一つだったことが想像できます。
FIELD土香の北側に隣接する今城塚古墳は第26代継体天皇の陵墓であるというのが定説となっており、周辺にある古墳群も含めたハニワ類は、この地で作られたと言われています。

太古を現代に

この地を含む大阪の摂津・河内地方で繫栄した陶芸の技術と生産は、9世紀ごろには瀬戸・猿投方面にほとんど移り、いつしか高槻の素晴らしい陶芸文化も人々から忘れられていきました。
1987年、京都より移住した陶芸家の安見一念は、この古代陶芸文化の重要性を見出し、これを源初とした今城焼を発表しました。創作陶芸家集団FIELD土香を中心に、この陶芸文化を国内外に発信し続けています。(今城焼陶磁器研究会より)

今城焼の特徴

今城焼は、“自然灰と陶土”が強い焼き冷やし還元炎で溶け、焼き締まるため、様々な窯変色を起こします。
ろくろ引きは大陸伝来の逆時計回りで成形されます。
また、素朴な「打ち込み成形技法」もその特徴的な技法と言えます。
古代の器や、埴輪の文様を踏襲しながらも現代社会にマッチした形に仕上げており、芸術性と日常使用性の追及を行っています。